彰心の偈

僧籍を得た私の僧活(仏示板)

體の声に耳を傾け中

皆様、年の瀬をいかがお過ごしでしょうか?
12月は師走と言われるほど忙しいのが世の常。
本当に本当にお疲れさまでございます。

さてもはや遥か昔に感じてしまう12月8日
この日は何の日でしょうか?
そうです、お釈迦様が菩提樹の基で悟りを開かれた日です。
その悟りが仏教となっていったわけですね。

その悟りがやっぱり面白い。
色々あるのですが、今回は四法印の基でもある『無我』でいきましょう。
無我、すなわち"私などない"という事です。
端的で切れ味よく、清々しいほどに潔い真理ですね。

私たち人間は幸せも感じますが、それは泥の中に咲く蓮の花の如くですね。
日々ドロドロとした感情の中、関係性にもがき、苦しんでいますね。
その原因は自分が在ると思い込んでいるからなんです。
自分らしさが在ると勘違いしているからなんですって。
個々人がこの世に生まれる尊さを説いた天上天下唯我独尊。
しかしこの事実現実から自分本位に世界を見ると、全てが”苦”となります。
その苦を回避しようとする思考、言動が”欲”を産みます。

私はこの教えに触れたとき、素直に詰んだと思いました。
だって明日からどうしていいか解らなくなったからです。
でもでもでも、教えを見つめ続けると、この世の苦しみは”生老病死”である
とも教えられます。
私が在ると思い込んでいるのは思考。欲と関係性。
苦しみの根源は生老病死
諸行無常諸法無我涅槃寂静一切皆苦
色即是空、空即是色

おぉ、自分が無いに当てはまるのは思考ではないか。
この肉体、この呼吸し、食べ物を消化し生きながらえ、日々衰えていくこの体はここにある。
煩悩具足の凡夫は思考中心に生きている様。
あがらえない老化、日々機能低下する體(からだ)。
小さく醜くなるこの愛しき乗り物
この體から発せられる言葉に耳を傾ける事こそが無我ではないだろうか。

體からも苦しみを避けようとする声が出る。これは欲と整理する。
その上で體をよしよししてあげたい。
思考を基に無理を強いない生き方を體に与えたい。
これを自愛と言うんだなぁ。無夢無無w

皆様、ご自愛くださいませ◎

 

強い決意を表そう!

金輪際って普段使いますか?
金輪際ってこういう漢字だって初めて知る人もいると思います。
あんまり使わないけど、金輪際って聞くと、「あーもうやらない事を強く決めたんだ」と理解はできますよね。
では金輪際って何だって話です。

金輪際とは仏教の宇宙観に依るものです。
虚空のなかに風輪という円筒状の気体の層が浮かんでおり、その上に水輪という水の層、さらに、その上に金輪という固体の層があって、それが大地を支えています。
その大地の上に、高さ56万㎞の須弥山を中心に、九山、八海、四大洲があり、人間はその四大洲の贍部洲(せんぶしゅう)に住んでいるとされています。
ここまでが前振りです。
この世界のそれらの大地を支えている金輪の最下端、つまり、金輪と水輪との境い目を金輪の際ですので金輪際と呼びます。
私たちにとっては、これより下のない、ぎりぎりのところ、われわれの世界の最下底という意味となります。
つまりは極限を表す言葉であり、否定を伴う表現をくっつけることにより、強い意思を表す事になる様です。

さて続いて観自在。
観自在とはもちろん仏教の言葉であり、"あらゆる事物を自在に観察する力"の事です。
この力をもち仏への道を歩まれているのが、観自在菩薩様となります。
一般的には神納菩薩様として知られており、衆生の苦しみの声を聴き、救いを与えてくれる力をお持ちです。
つまりは「あらゆる事物を見聞きし解る」という事です。
この力。私はこの世人間には最も必要であり、これさえできれば争う事もないし、競う事もない。
対人関係で悩むこともありません。
全てはありのままを見聞きし解る事さえできれば。
あらゆる事物は、それがそのままそこにあるのです。
それさえわかれば答えは自ずと出るのです。

という事で私は強い決意で観自在を実践していこうと思います。
金輪際、観自在でした◎

自分をよしよしヾ(・ω・`)

現代社会においても、"この世をどう生きるか"というテーマが日夜語られていると思います。
これは人類が人類として誕生した時からあり、今日にいたるまで追い求められているテーマです。
仏教ではこのどう生きるかというテーマの解をお釈迦様が出していると教えられます。
その中でも私自身、腑に落ちているモノをここでは紹介しています。

今回は、『自分の譏嫌は自分でとる』というものです。
皆さんは、今回使用している"譏嫌"をスッと読めましたでしょうか?
キゲンと読んでいただいて正解なのですが、このキゲンという言葉は仏教由来なのです。
仏教の道を歩む僧侶はお釈迦様の教えを布教するのが勤めになります。
しかしそのためにはその教えの実行者でなければなりません。
これが難しい。難しいゆえに周囲からは非難されたり、そしられたりします。
そんな時、周囲の非難やそしりに対して「そんな事言ったって…」と周囲を攻撃したくなります。
でも元をたどれば、どう生きるかの解をお釈迦様が示し、それを実行すると決めたのは自分です。
周囲から非難されたり、そしられたりしないよう息世譏嫌戒(そくせキゲンかい)というルールが仏教には在るのです。
これが現代の機嫌の起源です。

現代社会に生ける我々は、過多で過度な刺激によりすぐに機嫌を損ないますね。
それは過多で過激な刺激のせいにして、関係性がストレスになるくらい怒る場合もありますね。
確かに現代社会の課題も在るかと思いますが、そもそも機嫌は譏嫌。
誰のものでもなく、自分自身のものです。
譏(そし)りは自分自身で回避するものなのです。
自分の心もちや周囲からのそしりは自らが整うことが苦しみから離れる唯一の解なのです。

皆さんの軽やかな日々を祈念致します。
合掌◎

欲と苦しみの絆の強さはそりゃぁもう強固ですよ。

私は一休さんが大好きです。
アニメも早朝の再放送でしたが起きて観ていました。
今でもふとした時に、一休さんの逸話を負っている自分がいます。

一休さんはとんち小坊主の創作ができる程、
逸話に事欠きません。
お正月にドクロ事件。
僧侶の免状にうんち事件。
雀にお経事件。
臨済宗から浄土真宗に改宗事件。
晩年彼女と同棲事件。
などなど面白過ぎます。

これらの逸話はどれも魅力的で面白く、
そして学びの多い者でありますが、私が
最も好きなエピソードが、一休さん
臨終の際に言ったという言葉です。

『死にとうない』

仏教とは生きるを探求するものです。
生きるを探求すると、苦しみと直面します。
その苦しみは欲から生まれると知ります。
欲と苦しみはとても面白い関係で、
苦しみが強いほどそれにまつわる欲が強くなり、
欲が強くなるほどそれにまつわる苦しみも強くなります。
その中での最大級のテーマが"死"です。
故に仏教は死の苦しみにまつわる欲をコントロールし、
どう安寧に生きるかを模索し続ける道と言えるのです。

その道の中、高僧と呼ばれる方々がおり、私も
その道を歩むことができています。
一休さんはその高僧の中の紛れもないお一人です。
この高僧である一休さんが、自分の命が終わる間際に、
『死にとうない』というこの一言は、素直で無垢で、
カッコつけず、素朴で最も人間らしい一言であり、
私は仏教において重要な教えであり、真理だと思います。

一休さん、大好きです。
ありがとうございます◎

基本ができると、それはもはや悟り。

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悟りに到達した状態を“仏”と言います。
人間の中で唯一、仏に至った人がお釈迦さまです。

その悟りに至るお釈迦さまの話は様々あり、
どれも面白く興味深いです。

その後、多くの弟子たちがお釈迦様に習い
悟りへの道を歩むのですが、いまだ悟りに至る者は
ありません。
悟りに至れないのでは、信仰は意味がないのではと
お考えの方もいるかもしれません。
それは悟りが0-1的な印象があるからかもしれません。
実は悟りへ至るには52段階あり、
このプロセスを経ている人らを菩薩様と言います。
つまりは52段階を経た菩薩が仏に至るという構造です。
この52段階はまたご仏縁があれば記事にしたいと思います。

今回はこの仏に至る菩薩の道の基本姿勢です。
それは他の生命に対し、自他怨親なく、
過度な心配のない落ち着いた状態であることです。
これを『四無量心』と言います。
四というくらいですから、4つあります。
慈心、悲心、喜心、捨心です。

慈心…無条件の愛や優しさを自他ともに持つこと。
悲心…苦しみや困難を深く理解すること。
   またそれを和らげる意思。
喜心…幸福や成功を心から喜ぶこと。
捨心…森羅万象に対して求めず拒まない状態。

これらの状態である事が菩薩の基本姿勢となります。
基本の獲得がすでに悟りな気がします。
でも武術でも学問でも基本が極意でもありますよね。

私は対人援助を極めんとするために、
法を学ぶ道に入りましたが、日々対人援助の現場
におりますと、基本が極意(悟り)であると痛感します。

人は人からしか生まれません

日本には八百万の神々がおり、柱としてお支え頂いていると言います。
その御柱にアクセスする代表的な場所が神社ですね。
皆様におかれましても神社へ参拝に上がられている事と存じます。
御柱は皆様の奉りがあればある程力を増しますので、神社に行きましょう。

いきなり僧侶っぽくない書き出しとなりましたが、日本は信仰に関しては
世界でも唯一自由な国であると思います。
目に見えない存在、科学ではまだ説明できない存在、理屈を超えた大いなる存在
どんな切り口や存在でも信仰心を大事にすることにより
隣を赦し、自身を赦す事ができるのではないかと思います。

さてそろそろ僧侶っぽい話をしましょう。
ガンジス川の砂の数ほど大いなる存在はいるとされています。
お釈迦様を初めとして、如来、菩薩、天など様々です。
これら仏様は私たちに生き方を日々教えてくださいます。
この生きるを大切にする上で、重要な事は多くあるのですが、
その中でも大事にしたいのは、ご先祖様です。

これは説明を必要としないでしょう。
だってご先祖様が居なければ、今の自分は存在しないのですから。
また日本ではこのような信仰の在り方を宗教と表現します。
この宗教の“宗”という字はご先祖を意味するとも言われます。
すなわち宗教とはご先祖様を大事にする事とも言えるでしょう。

でもお墓に行けない、お寺に行けない、仏壇がないなど
ご先祖様を大事にしたくても、塔をたてて供養したくても
できない事が在るかもしれません。
そんなときは、今すぐその場で合掌し、ご先祖様に思いを馳せ
感謝申し上げましょう。
これぞ『即是道場』
いつ何時どのような状態にあっても仏教の実践は行えます。
さぁ今すぐ手を合わせご先祖様に感謝申し上げましょう。
そしてお墓やお仏壇、お寺に塔婆をたてて供養を
どこかでしていただければ幸いに思います。

 

仏教由来の日常言語

貴方自身、もちろん私自身も唯一無二で、この世にある事自体が奇跡の中の奇跡である。
故に尊い
この認識は仏教でも同様であり、天上天下唯我独尊と教えられている。
しかし尊いからといって人間は完全ではない。貪瞋痴を根っこにして煩悩に手足が生えた存在です。故に涅槃を求めて生きるを探す旅人なのです。
 この生きる旅は煩悩、欲、苦しみとの対話と言っても過言ではないでしょう。
その対話の過程でまま煩悩、欲、苦しみは波立ち、暴れます。
こうなると皆さんはどうしますか❓
一般的に「我慢」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
でもね、実は我慢という言葉は、“耐え忍ぶ”的な意味ではないです。
仏教で「我慢」は驕り高ぶる心を“慢”とし、7種あるとしています。その一つが、私が私がという我の慢、我慢というわけです。
一方、我がつく言葉で悪い言葉とされがちな「我儘」。これこそ煩悩とされますよね。
視点を変えれば本来の我のままに、“私の全て”と解釈も可能です。
我儘は自分勝手ではなく、自分のことが解り行動することとも言えるわけです。
煩悩、欲、苦しみと対話する事が避けられない生きるという事。
おごり高ぶった我慢、私の全てを解り行動する我儘も具体的な話で参考にしてもらえたらありがたいです。
大切なのは1つの視点に固執しないことであり、尊い個人の集合体で社会があるということですね。
最期に煩悩や欲、苦しみでつらくなった時、私は『辛抱』という言葉を頼ります。
辛さをも抱きしめて許していきたいと思います◎